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「年々、一年が早く感じる理由」

2012/01/20 11:54

 

「はっ!」

と我に返ると、すでに一月も3週目が終わろうとしている。

 

 

年末から年始にかけて、一年がやたら早いんだよなぁと言う人が多かった。

それだけみんな年をとったということなのだろう。

冷静に外から見ているフリをしている僕も、実は、そう感じている一人である。

 

どうして年をとるごとに一年が早く感じるようになるのか。

ある忘年会の際、年を経るごとに刺激が少なくなるからだと教えてくれる人がいた。

「へぇ~」

とうなずいた。

確かにそうなのかもしれない。

 

ある新年会でその話をすると

「ならば刺激が多い人は何歳になっても一年は長く感じるのかなぁ…。

例えば出張や旅が多い人とか」

と言った人がいた。

 

出張はわからないが、旅はある程度、僕にも経験があり、確かに思い当たる節はある。

僕だけかもしれないが、旅が多かった年は確かに一年が長いような気がする。

それでも年末には

「一年経つのが早いなぁ」

と言うんだけど。

 

旅の種類にもよる。

例えばリゾート地に10日程行って、海辺で一日中、ごろごろしているだけの生活を送ったとする。

一見長く感じそうだが、そう思うのも初日、二日目まで。

一旦、その時間の流れが身体に馴染んでしまうと、

そこから残りの一週間はあっという間に過ぎ去ってしまう。

たいてい帰りの飛行機で一緒に行ったパートナーと

「あっという間だったね」

と言っている。

 

逆に取材旅などで移動やらプログラムやら会食やらの予定が詰まっていたりすると長く感じることはある。

長くというのとはまたちょっと違うかな。

「長いようで短かった」

という表現が近いのかもしれない。

きっと同じリズムの時間の流れに身をまかせると、あっという間に時間は流れていくのかもしれない。

 

セカイサンポという企画で世界の街を歩く旅から戻ってきて今年の春で3年が経つ。

時折、出張はあるが、基本的には岐阜の生家で朝6時に起きて、夜10時には寝るという生活リズムが身についている。

そのせいかもしれないが人生の中で一番、短く感じた3年だった。

ただ、その分、籠って自分の可能性を信じて書き続けた日々であったようにも思う。

 

さてさて、今年はどんな一年になるのだろう。

まぁ、どちらにせよ、「ふっ」と気を抜いた時に、月日が経っていることに気づくのだろう。

そして12月になったら、やはり「は」行の、

「ひぃ~!」

と言って終えるのだろう。

まぁ、それでもみんな健康で過ごせれば、それだけで幸せだと思う。

皆様も素敵な一年でありますように。

遅ればせながら今年もよろしくお願い申し上げます。

 

 

今年もヤギとの時間を大切に過ごしたいと思っております。

 

 

…WEBで見られるイシコの連載一覧… 

「セカイサンポ公式HP」喫茶王国、「英語教材アルク、 「朝英語」、 「salitote」、  ヤギ小屋プロジェクト」、 「亜紀書房WEB連載」

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「親の死について」

2011/12/17 16:42

 

パートナーの母親が逝った。

延命措置をしないことを彼女の家族が決めたのが9月。

医師から余命は1ヶ月と告げられた。

 

10月に入り、彼女から

「お母さんがそろそろ危ない」

と連絡をもらい、岐阜にいる間も、いつでも東京に行けるようにしていた。

パートナーは時間を見つけては片道2時間半かけて千葉の病院まで見舞いに出掛けて行った。

 

そうこうしているうちに1ヶ月が経ち、病状が安定してきた。

その間に僕も一週間程、東京に滞在し、彼女と一緒に見舞いに行った。

 

そして余命宣告から2ヶ月。

僕が岐阜に戻り、

名古屋の劇場で、「ピアフ」の芝居を拝見し、

「死ぬのは一回しかないからね」

エディット・ピアフの親友トワーヌがつぶやく台詞を胸に刻みつける頃、

パートナーの母親は眠るように逝ってしまった。

 

劇場からそのまま深夜バスに乗り、東京に向かった。

パートナーも彼女の家族もある程度、心の準備はできていただろうが、いざ、亡くなった時の感情は違うだろう。

泣きはらしたパートナーを想像したが、意外にも彼女は、にこやかだった。

「お母さんの前では笑顔でいようって決めたんだよね」

一瞬、僕の方の笑顔が崩れそうになるのを、ぐっと耐えた。

 

密葬に近い葬式が終わり、23日した頃だろうか。

普段、弱いところを見せない彼女が、ふとした時に寂しそうな表情を見せるようになる。

彼女に悲しみがじわじわ押し寄せてきていることは鈍感な僕でさえもわかった。

 

「親が亡くなる」ということが、特別な別れなのだということを改めて考えさせられた。

親はいくつで亡くなろうがつらい。

一般的には子供が若いうちに親を亡くすと、

「まだ、お子さんが小さいのに…」

と言われる。

 

僕の父は小学校の頃に逝ってしまった。

亡くなった時は泣き叫んだが、

父との想い出が少なく、複雑な感情が育つ前だったので、

今から考えると僕が子供で救われたことがあったのではないかと想うこともある。

もちろん今でも父と酒が酌み交わせたらなぁと思うことはあるけれど。

 

それでは逆はどうだろう。

例えば友人のお母さんは70歳を超えているが、

そのお母さん、つまり友人からすれば祖母にあたる方も100歳を超えて、お元気なのだそうだ。

もし、その100歳を超えたお母さんが亡くなった時、周囲は

「大往生だね」

と言うかもしれないが、70歳の子供は、どうだろう。

やはり、つらいのではないのだろうか。

二人の想い出は70年分詰まっているのだから。

 

まぁ、親の死について、「早い」、「遅い」なんてことを考えること自体が馬鹿げているし、結論も出るわけはない。

ただ一つだけ言えるのは、人は誰でも死ぬことだけは平等に訪れ、その時期は誰にもわからないということ。

さてさて、現在、実母の葵ちゃんから僕が急に優しくなって気持ちが悪いと言われている。

 

 

 

パートナーの実家に行くと、いつも優しい笑顔で迎えてくれた。

ありがとうございました。ゆっくり休んでください。

 

 

 

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「「幸」のイメージ」

2011/11/22 13:49

 

「幸」の漢字は元々、拘束具の手かせの様子を描いた象形文字だったと教えていただいたことがある。

つまり刑罰を意味する文字だった。

その後の詳しい流れはよくわからないが、「しあわせ」に「幸せ」の漢字を用いるようになったのは江戸時代以降らしい。

 

様々なところで話題になっている映画「幸せの経済学」を拝見した。

30年前まで外国人立入禁止区域だったヒマラヤの辺境ラダックは、

先進国から見れば不便な部分を感じるかもしれないが、

7代の先の子孫のことまで考えながらの持続可能な豊かな生活を送っていた。

それが西欧の消費文化が押し寄せたことによって、

ほんの10年で穏やかな生活が壊れていった話を軸に様々な知識人が論じていくドキュメンタリー映画である。

この映画のテーマになっているグローバリゼーションとローカリゼーションの是非に関する話は、

今の僕には意見を言う程の知識もなく、考えも成熟していないので触れないが、

それより僕がこの映画で考えさせられたのは「幸せ」の概念についてだった。

 

数年前だったか「国民の幸福度」が、日本は世界で90位(正確な順位は忘れてしまった)だったニュースをインターネットで見かけたことがある。

セカイサンポの旅の途中、

外国人にこの話をすると日本のように治安がよく、

飢餓の心配もない国なのにどうして「幸福度」が低いのか不思議だと言われた。

僕も正直、その結果が腑に落ちなかった。

 

しかし、日本に戻り、10年連続自殺者が3万人を超えるニュースや

笑顔の少ない電車の中、

周囲のいろいろな人の話を聞いていると、

日本の幸福度の低さもまんざら嘘ではないかもなぁと、

このところ思うようになっていた。

 

ただ、改めて、みんなの幸せって何なのだろう。

「いい車に乗りたい」

「大きな家を持ちたい」

など単純な物欲が達成された時に味わう感覚が幸せだというのはわかりやすいが、

恐らくそんなに長く続く感情ではない。

 

お金はものすごく大事だし、

もちろん「幸せも金で買えますよ」と言い切る人はいるかもしれないけれど、

たいていの人は、「幸せ=お金」だけじゃないと思っているのではないだろうか。

 

それでは今の悩みが消え去れば幸せになれるのか。

これもクリアになった時の感覚は幸せだろうが、

たいてい次の悩みがやってくることが多い。

家族、健康、希望、笑顔…キーワードになる言葉やそれを組みあわせた言葉はいくつも頭に浮かぶが、

「これだ!」と言い切れるものはない。

当たり前と言えば当たり前なんだろうけど。

 

もっと根本的な部分なのではないだろうか。

生きているだけで幸せなんじゃないだろうか。

いや、人と比べて自分の幸せを感じているのではないか。

いやいや、人と比べない自分の存在が確立できた時に幸せを感じるのではないか。

いやいやいや、そもそも幸せなんて言葉はいらないんじゃないか。

考えれば考える程、わからなくなっていく。

幸せ、幸せって考え過ぎているうちに、考えること自体が手かせ足かせになり、

「幸」本来の意味合いに戻ってしまいそうである。

 

 

僕はヤギ見ていると幸せなんだけどなぁ…って、その幸せは?って考え始めると混乱してしまいます。

 

 

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「ほら吹きでいこう!」

2011/11/02 14:45

 

以前、知人が初対面の方に僕のことを紹介する際、

「イシコは、ほら吹きなところがあるけれどね…」

と言って笑った。

もちろん冗談ではあるが、僕自身、心当たりは山ほどある。

いつもやりたいことを口で言っているものの、そのほとんどが前に進んでいかないからである。

 

例えば、

「これからは本を一つの表現媒体にしていこうと思っています」

と偉そうに言いながら、既に2年。

未だ一冊も本が出ていない。

 

今年の7月に幻冬舎からセカイサンポの文庫本がようやく出版予定だったが、未だに出口が見えない。

先月、ようやく第一稿が書きあがったばかり。

話合い、直し…などと今後の作業を考えるとまだまだ道のりは長い。

担当編集者からは来年7月出版と告げられる始末。

つまり一年遅れ。

それでも来年7月に出版されれば、とりあえず一つのほらは現実になるので、まぁ、いいかなぁとは思っている。

20年付き添ってくれているパートナーからは、

「ハングリーさが足りなさすぎる!」

とこっぴどく叱られたけれど。

 

昨年の夏から立ちあげたヤギプロジェクトに関してもやりたいことは山ほどあるとほらを吹いた。

しかし、こちらも2年目に入ったにも関わらず、思うように進んでいない。

亜紀書房で単行本にするため、この出版社のWEBでヤギの連載が始まったが、

こちらも本が出るまでには少なくとも2年はかかるだろう。

 

やりたいことを口にすることは相変わらず変わらないし、

今後も言い続けるだろう。

もちろんうまくいくことなんてなかなかない。

しかし、不思議なもので、一度や二度、頓挫していても、ずっと言い続けていると、

人のご縁や世の中のタイミングが重なり、ほらが現実になることがやってくる。

実際、5年前に言っていた企画が、ある日、突然(大げさでもなく本当に突然でした)、動きだしたことだってある。

ちなみにセカイサンポは最初に言いだしてから6年後。

そのセカイサンポは3回目の旅の準備で頓挫して止まったまま。

しかも頓挫の途中で田舎暮らしを満喫してしまっている始末。

 

口を結んでがむしゃらにぶつかっていくというよりは、

「まだまだあきらめませんよ~」といった感じなので、どうしても動きは遅くはなる。

今の時代、結果を早く求められることが多く、

僕のように企画が停まっている期間が長いと今回のように「ほら吹き」扱いされることだってあるだろう。

それも一つの見方なのだから仕方がない。

スピードの時代に合わせろと言われることもあるが、じっくり想いを持ち続けて、

タイミングを待ち、ようやく実現する企画もあると思う

その人が死ぬまで「ほら」だったかどうかなんてわからないのだから。

 

「男は黙って実行する」

と本当は心に秘めておいて実行できた方がカッコいいのだろうが、残念ながら僕にはそれだけの才能はない。

どうしても自分がやりたいことがあれば言い続けて、周囲の力をお借りして実行していくことになる。

 

さてさて、最近、ヤギとセカイサンポ以外に、白塗りのアートプロジェクトを本にしたいというほらも吹き始めた。

様々なところでほらを吹き、企画書も送ったが今のところ全敗中。

いつかタイミングが降ってくることを待ちながら今日も動き続ける。

 

 

胸に秘めた「ほら」ってどんな形だろうって思うことがあります。

 

 

 

 

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「老眼を受け入れられるか?」

2011/10/11 15:08

 

子供の頃から身体は弱かったが視力だけはよかった。

「でも、目がいい人は老眼になりやすいらしいからねぇ」

視力がいいことを友人から羨ましがられると照れくさくて、そう言っていた。

その老眼が現実になる日がこんなに早く来るとは思ってもみなかった。

 

ある日、スマートフォンの画面を眺めている時だった。

「あれ?ひょっとして来てる?」

同級生の友人がそう言った。

 

最初、意味がわからず、きょとんとした顔をしていると

「ろ・う・が・ん!」

彼はゆっくりとからかうように言った。

その時、僕はスマートフォンから顔を遠ざけながら、焦点の合うところを探していたようだ。

 

「まさか?まだ老眼には早いよ~」

僕は笑いながらも顔はひきつっていただろう。

そういえば最近、文字を読む際、ぼんやりしている気がしている。

きっとパソコンに向かっている時間が長いので、ちょっとした疲れ目だとばかり思っていた。

 

彼と別れた後、デパートの大便用のトイレに入った。

便座に座ると鞄から文庫本を取り出し、

目から20センチくらいの距離で開いてみる。

やはり、ぼんやりしていた。

 

数年前までは、たとえ最初はぼんやりしていても、カメラのレンズの焦点を合わせるように時間差で焦点が合っていた。

きっと今回も…と思いながら、延々、文字を見続けるのだが、一向に焦点が合う気配がない。

見える位置まで恐る恐る離していく。

目から30センチくらいの距離で焦点が合う。

まちがいなく老眼である。

ショックだった。

 

記憶力が悪くなったと口では言っていても、

はっきりとした形で見える現象ではないので、どこか曖昧である。

しかし、老眼のように現実として自覚できてしまうと、

身体の機能としての衰えを実感してしまう。

 

衰えた肉体にはそれなりの楽しみがある…と書きたいところだが、残念ながら今の僕には無理である。

これから少しずつ慣れていき、歳を経ていくことは自然のことなんだと思えるようにはなりたい。

「自然のこと」と書くのはカッコつけすぎかもしれない。

「仕方ないと」と受け入れる感じなのかもしれない。

肉体も大きな意味で道具なのだから。

長く使えば疲弊することは出てくることは仕方がない。

もちろん今まで以上に健康には気をつけていこうとは思っているけれど。

 

現在、アンチエイジングの研究がどんどん盛んになっている。

将来的には老化を遅らせる薬もどんどん出てくるだろう。

僕が知らないだけで既にあるのかもしれない。

考え方はいろいろあるだろうが、できるだけそういった物にお世話になりたくないなぁと思っている。

頼れば頼る程、老化に対する恐怖が増し、その先にある自分の死さえも受け入れられなくなるような気がする。

気の小さい僕の場合、アンチエイジングなどに頼り始めると、

鏡に映った自分が溶けて皺だらけになっていく夢などを見てしまいそうである。

 

なぁんて言いながら、20年後、アンチエイジングサプリメントを食事に取り入れていたりして。

 

 

健康には気をつけようと思います。

 

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「原発って悪い怪獣なの?」

2011/09/18 17:07

 

8月末。

暑い昼下がりの午後だった。

喫茶店にふらりと入り、アイスコーヒーを飲んでいた。

 

「原発って悪い怪獣なの?」

5歳くらいの女の子の声だった。

どうして、そんな言葉が彼女から出てきたのかはわからない。

ただ、前に座っていたお母さんは、

ごまかすようにして、その話を切り上げ、

逃げるように店を出て行ってしまった。

 

それよりさかのぼること半年以上前。

2月だったと思う。

スゥエーデンのエネルギー事情に興味があり、

ドキュメンタリー映画「ミツバチの羽音と地球の回転」を拝見した。

当時は、そこまで注目度が高い映画ではなく、客席には10名もいなかったと思う。

 

6月。

原発誘致に反対する祝島の人々に対する国や電力会社の対応に興味があり、

同じドキュメンタリー映画を拝見した。

震災後、一気に注目度が高まり、この作品はロングランを続けていた。

伺った日は上映後に鎌仲ひとみ監督と

音楽プロデューサーでap bankの代表理事でもある小林武史さんの

トークショーが開催されたこともあり、会場はほぼ満席。

 

その頃、僕は原発について考えていた…はずだった。

当然、僕の頭ではすぐに答えが出る訳もなく、

「う~ん」と唸っているうちに日々の生活に追われ、この問題は打ち消されてしまった。

情けない限りである。

 

そして、残暑厳しい日に聞いた子供の声で再び考え始める。

先週、11月公開予定の映画「カリーナの林檎~チェルノブイリの森~」の試写に伺った。

今関あきよし監督が私財を投じて2003年に創り上げた映画である。

この作品は約8年もの間、眠っていた。

 

東日本大震災の後、この作品が公開されることが決まったと連絡があった。

恐らくタイトルだけを見るとドキュメンタリー映画だと思うかもしれないが、

この作品はあくまで今関監督の世界観が詰まったフィクションの作品である。

しかし、震災後に観ている僕には、途中からフィクションなのかドキュメンタリーなのかわからなくなっていく。

実際、こういった話は日本のあちこちで始まるような気がしてならない。

決して時間を元に戻すことはできない。

 

今回の震災で、エネルギーに対する感覚は変わった。

「原発って悪い怪獣なの?」

という言葉が子供の口から普通に出ることは、1年前の日本では考えにくかったと思う。

反原発を唱える人はマイノリティだと言っても過言ではなかったのだから。

 

いったい、お前は原発擁護派なのか原発反対派なのかどっちなんだ?

そう聞かれることもあるが、本音のところ、まだ言い切る自信がない。

セシウム入りの野菜と農薬だらけの野菜とどちらが健康に害を及ぼすのか。

微量のセシウムを何年も浴び続けた時、身体にどんな影響を及ぼすのか。

それさえも答えられない僕には、全ての人にとって原発が悪い怪獣とは言い切れない。

今まで頼りきってきた怪獣に。

 

ただ、これをきっかけに少なくともエネルギーが選べる社会になればいいなぁとは思っている。

 

そういえば、先日、絵本作家の五味太郎さんがトークショーの中でこんなことを言っていた。

「原発反対ってのがちょっとピンとこないんだよなぁ。

だって原発に賛成した憶えないもん」

またまた僕は、「う~ん」と唸る日々を過ごしている。

 

 

唸っていたら、スマートフォンが割れました。

正確には唸って、落として、割れました。

 

 

 

 

 

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「横書きのリズムと縦書きのリズム」

2011/08/25 16:45

 

今年に入ってから、時間を見つけてはセカイサンポの書きおろし文庫本の原稿を書き続けている。

亀のように進み具合が遅い。

いや、亀に失礼かもしれない。

それくらい遅い。

 

原稿用紙3枚程度の連載原稿と

原稿用紙300枚を超える本の原稿とでは明らかに書き方が違う。

当たり前と言えば、当たり前のことである。

一冊を書きあげる技術を持ち合わせていないことを痛感する日々である。

 

担当編集者の方にも、かなり迷惑をかけている。

「一気に書くのは難しいと思うので、書けたところから少しずつ送ってください」

と言われ、お言葉に甘え、週に6ページ程度ずつ送っている。

文字校正はもちろんのこと、

全体の構成からはずれていないか、

文章のリズムは大丈夫かなど、

まるでマラソンランナーの伴走のようにチェックしていただいている。

 

現在、僕の連載はWEBが多いこともあり、ほとんどが横書き原稿である。

いつしか僕は横書きで文章を書く癖がついているようで、

本の原稿も最初は横書きで書いていた。

 

一回目の原稿を送った時のことである。

編集者から赤が入って戻ってくるときに縦書きの状態で戻ってきた。

自分の文章を縦書きで読んだ時、明らかに違った印象に感じられたのである。

それ以来、一旦、横書きで書いてから、縦書きに直して推敲するようになった。

最初から縦書きで書けばいいのだろうが、

横書きのリズムに慣れているせいか、いきなり縦書きで書こうとすると文章が出て来ない。よって時間はかかるが、横書きのリズムで書いてから、縦書きのリズムに直す作業をしている。

 

たかが推敲。されど推敲。

なかなか進まない。

先程、休憩がてら畳の上に寝転がり、

宗教学者の山折哲雄さんと絵本作家の五味太郎さんの対談集「砂漠と鼠とあんかけ蕎麦」(アスペクト)をパラパラ読んでいた。

その中のあるやりとりを読んで、ハッと起き上がった。

 

抜粋して要約させていただく。

日本語というのはそもそも縦書きである。

対して西洋は横書き。

横書きの基礎をなしているのは表音文字。

縦書きは漢字文明圏である表意文字。

表意文字のイメージは絵や音楽に対し、表音文字は言葉。

 

表音文字は上から下へ流れるリズムである。

決して横に流れるリズムではない。

上から下へ流れるリズムを支えているのは呼吸のリズム。

それが日本人の生命を支え、その生命のリズムが詩歌のリズムになり、やがて日常の生活のリズムになる…というのが山折哲雄さんの理論。

 

僕が苦しむ縦書きに通じる部分がある。

きっと僕は上から下へ流れるリズムが、身体に馴染んでいないのだろう。

横書きで本を出版するならともかく、今回、縦書きで出版する以上、

そこはクリアしていかなければならないし、

縦書きの表現を習得するための、いいきっかけでもある。

理論がわかっただけでも大収穫である。

とはいえ理論がわかったからと言って、それでうまくいくわけではないのだけれど。

まぁ、結局のところはトンネルを掘るように地道にコツコツ前に進んでいくしかないのだろう。

 

 

ちょうど昨日、セカイサンポ公式HPで使用した写真が、これだった。

カンボジア語も表音文字なんだなぁ。

どこか絵や音楽に通じるものがある。

これはこれで好きだなぁ。

 

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「車を購入しない理由」

2011/07/28 16:14

 

 

このところ似たような質問を受けることが続いた。

 

「どうして車を買わないんですか?」

 

 

公共の交通機関がほとんどない僕の村では、大人は一家に一台ではなく、一人一台が普通である。

一家に姉の車一台しかない僕の家は不思議に映るらしい。

しかも僕はよく歩いている。

健康のためではなく移動の手段として歩くというのは、更に不思議に映るらしい。

 

「お金がないからですよ」

と答えたこともあるのだが、頭金なしの月々数万円のローンで新車が手に入る現代では、この答えでは納得していただけないらしい。

「駐車場が一台分しかないんですよ」

と答えたこともあるのだが、以前、僕が東京で車に乗っていた頃、岐阜に来た際は駐車場の隣の畑にそのまま乗りあげていたことを覚えている方には説得力がないらしい。

そこで最近は、

「今の僕の生活だと必要ないんですよね」

と答えることにしている。

 

岐阜にいるときは、僕はほとんど家にいる。

今年の春からは消防団の訓練があるし、

夏休みはヤギプロジェクトなど家の外には出ることが多いので、

正確には家にいるというよりは、村にいると言った方がいいのかもしれない。

ただ村の中では、特に車を必要としない。

 

村の中で少々、離れた場所に出掛ける際、自転車を使用することもあるが、

その自転車でさえ母の所有物を使っているくらいだ。

自転車くらいは、そのうち気に入った自転車に出会えたら自分専用の物を買おうとは思っているけれど。

 

では村を出る時は、どんな時か。

月に一度程度、東京に行く時と

東海三県の散歩取材で週に一度程度である。

どちらも最寄りの電車の駅まではバスを利用する。

 

「東京はともかく散歩取材の際は車で行った方が便利じゃないですか?」

と尋ねた方がいた。

僕の散歩取材の場合、行き先は決まっておらず、電車の中で降りる場所を決めることが多い。

降りた駅に戻ってくることは少なく、たいていふらふら歩いて別の駅から乗る、もしくは途中で来たバスに乗って別の街に移って行ってしまう偶然性を楽しむことが多い。

となると逆に車があると場所に縛られ、戻ってこなくてはならない。

しかも、散歩の後にお酒を飲むことも多い。

だとすると問題外。

 

土日で姉の車が空いていれば借りて、本屋や図書館、レンタルビデオ屋にでも行こうかなぁと思うこともあるが、基本的にインターネットで本は購入できるし、レンタルビデオも借りられる。

ふらりとドライブしたくなることが半年に一度くらいあるが、レンタカーを借りれば済む話である。

こうして僕にとってマイカーの必要性はどんどんなくなっていく。

 

「車買ったろうか?」

母の葵ちゃんがそう言ったことがある。

彼女の魂胆は見え見えである。

病院、温泉、買い物、お稽古と僕より出掛ける用事が多い。

僕が車を持てば、アッシーになることは間違いない。

実はそれが「車を購入しない」一番の理由かもしれない。

 

 

東南アジアで見かけるリヤカーつきのバイクなら、ヤギプロジェクト用でヤギ乗せ用に買ってもいいかなぁ。

 

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「ジャーナリストという職業」

2011/07/18 16:58

 

喫茶店でカメラを横に置き、ノートパソコンを取り出して、写真の整理をしていたら、

「ジャーナリストの方ですか?憧れの職業なんです」

と隣に座った若者から聞かれたことがある。

 

世界の紛争に出掛けて行く、

様々な汚職を追う、

僕の中のジャーナリストは、そういった硬派なイメージがある。

散歩をテーマにヘナチョコな文章を書いている僕など足元にも及ばない。

もちろんジャーナリストではないと否定した。

彼はとても残念そうだった。

 

先日、名古屋でジャーナリストの飲み会にお誘いを受けた。

その飲み会で知っている方は誘ってくれた友人以外に誰もいない。

僕は人見知りが激しく、一緒に連れていく方に気を使わせてしまうことが多いので、

パーティーや知らない人が多く集まる飲み会には行かないことが多い。

ただ今回、僕に無縁のジャーナリストの世界をのぞいてみたかったこともあり、参加させていただくことにした。

 

フリージャーナリストが8名集まっていらっしゃり、僕と友人を入れて10名程の飲み会だった。

皆さん顔は穏やかなのだが、様々な修羅場をくぐり抜けてきたんだろうなぁと思うような目をしていた。

 

飲み会に参加した皆さんが震災直後から被災地に入った時の取材話が中心になる。

目をそむけたくなるようなことの連続。

そういった目がそむけたくなる気持ちもあれば、

スクープを撮りなくなる気持ちもどこかにある。

そういった様々な想いに混乱を生じたそうだ。

シャッターを押すことができなくなった方もいれば、

シャッターを押しながら涙が止まらなくなった方もいた。

 

デスマスク(死体の顔)を出すべきか出さないべきかといった「死者」に対する尊厳の議論にもなる。

「日本人ジャーナリストは、死体に慣れていない…」

そうつぶやいたジャーナリストの言葉が胸に刺さる。

 

「がんばろう!ニッポン!」の標語の話にもなった。

この標語が本当にいいのだろうかと。

被災地の方々は既にこれ以上ない程、がんばっている。

「がんばれ!」ではなく、「負けないで!」の方がいいと思うとおっしゃるジャーナリストもいた。

ただ、それを言っている被災地以外の人たちも「善意」があっての「がんばれ」だから責めることはできないのだと言うジャーナリストもいた。

どちら側にも立って物を見て考える、聴いているこちら側にも考える余地が残された議論だった。

 

家に戻ると広辞苑でジャーナリストを広げてみた。

新聞・出版・放送などの編集者・記者・寄稿家などを総称してジャーナリストと呼ぶらしい。

待てよ。

僕も出版物に寄稿している。

となると広い意味において、僕もジャーナリストと言えなくはない。

しかし、それでも次に「ジャーナリストの方ですか?」と聞かれる機会があっても否定すると思う。

僕には、まだそういった部分が不足している。

それを認識した夜でもあった。

 

 

ヤギにハマっている僕としては、もう少し精神力を鍛え、ヤギの世界を追うジャーナリストをめざすのも悪くないかもしれない。

 

 

…WEBで見られるイシコの連載一覧(過去も含む)… 

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「何に時間を使うのか」

2011/06/28 16:58

 

ドストエフスキーの長編小説「悪霊」を読み終えた時のことである。

長編小説は細切れに読むことが多いが、このときは日々の空いた時間を読書に費やして一気に読んだ。

もちろんそれだけ素晴らしい小説だったのだが(と言っても既に読み終えてから1年以上経ち、内容もあやふやになってきているが)、読み終えた後の最初の感想は内容とは全く関係ないことだった。

 

この作品が発表された1870年代は映画もテレビもラジオもなかった。

娯楽といえば、音楽と芝居くらいだったのではないだろうか。

しかも出掛けて行かなければ、聴いたり、観ることはできない。

と考えていくと、その当時の本の役割は大きかったんだろうなぁ。

それが最初の感想だった。

 

改めて言うまでもないが現在、世の中には様々な娯楽がある。

映画の新作も観たいし、テレビのドキュメンタリーも観たい。

雑誌も読みたいし、音楽も聴きたい。

インターネットでツイッターもやりたいし、

メールでのやりとりも楽しみたいし、時には電話で話もしたい。

あげていけば欲望にキリがない。

恵まれているのだが、全ての時間を楽しもうとするといくらあっても時間が足りない。

一日の時間というのはドストエフスキーの頃と変わらず、一日24時間しかない。

 

じゃ、どうすりゃいいんだろう。

ドストエフスキーの「悪霊」を読んだ後に、ふとそう思ったのである。

だからといって、特にこうしようと思った記憶もない。

ちなみに「悪霊」の内容とは全く関係ない。

 

ただ、それがきっかけになって、時間軸で物事を追うことはなくなった気がする。

つまり流行の作品を追うことがなくなった。

なくなったというのは言い過ぎかもしれない。

もちろん話題作が耳に入ってきて面白そうだなぁと思ったら手に取ることもある。

ただ自分が、今、読みたい観たい聴きたいといった感情を大事にするようになったような気がする。

それは古かろうが新しかろうが、メジャーだろうがマイナーだろうが関係ない。

 

「歳をとっただけだよ」

という知人がいた。

恐らくそれもあるのだろう。

流行を追いかけることに時間を費やすんだったら、その分、自分の好きな物を優先的に観たり、聴いたりする時間にあてたい。

それでも時間が足りないのだから。

さてさて、今、トルストイの「戦争と平和」を読んでみようか迷っている。

 

 

古本屋が、どんどん好きになっているのもそのせいかなぁ。

これはインドはデリーの古本屋。

 

 

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